高2の一人の女子同級生へ。
あの時ぼくは、数学の課題をこなしていました。
そのとき別に聞き耳立てたわけじゃありませんが、ふと耳に日本語化された空気の振動が飛び込んできました。
私の脳みそは優秀です、誤りを犯すことなく正しく音を言葉に変換しました。
wvwvwwwwwvvvv
↓
弟の携帯を覗き見したことある
とね。
なぜか自分に「○○君はどう思う?」て振られたから「それは・・・やってええことなんかなぁ自分だったら誰のケータイもこっそり見たりはしないなぁ」て答えたけど、
いやそれはアカンやろ。
弟であれ彼氏であれ友達であれ両親であれ、「誰の」スマホ(昔はガラケー主流だけど)関係なく覗き見したらアカンやろ。
実は大学生のとき所属していたサークルの夏合宿時にパスコードかけてなかったからこっそり自分のスマホを覗き見した輩がいて「見られないようにしなかったのが悪い」言うてたけどそーいう問題ちゃうねん。
スマホには個人情報があり、言い換えればその中にはプライベートが電子化されて保管されている。
さらに言ってしまえば、スマホには真実がある。
媒体に関わらず真実とは、ありのままを我々に押し付けるものであり、逃げ道を塞ぐもの。
「いやでもあの人のことだから~・・・」とか「何かの間違いで~・・・」などの言い訳を無条件でシャットアウトする。
真実とは、今後の結果がどうであれそのように受け取らねばならない、ある意味残酷な歴史なのだ。
人を愛する、とはどういうことだろうか。
大切にする、何があっても味方であり続ける、など人によっては色んな意見が出てくるだろう。
しかし、
ありのままの過去を受け入れる=真実から目を背けることなく真正面から向かい合う
ことも「人を愛する」行為として認められて然るべきではなかろうか。